山中鹿介胴墓

付近住所 岡山県高梁市落合町阿部2200 たいようの丘前 


 鹿介は、幼名甚次郎鹿之介と云い、天文14年(1545)出雲国富田庄(現島根県広瀬町)に生れる。
 尼子氏の重臣で、名は幸盛。尼子晴久・勝久に仕えて、尼子十勇士の一人とされ、少年時代には「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った話は有名。
 尼子氏はのちに毛利家との中国覇戦に敗れ衰退、再興をかけ天正6年(1578)播州上月城(現兵庫県上月町)で戦いに敗れ勝久は自害した。
 鹿介は毛利に降伏し、毛利輝元の本陣である松山城へ護送される途中の天正6年7月17日阿井の渡し(現落合町阿部)で河村新左衛門・福間彦右衛門によって暗殺された。鹿介34歳。
 その首は、輝元のいる松山の本陣に送られ、遺骸は観泉寺珊牛和尚の手により、赤羽根の「石田畑」に葬られていたものを、遺骨を再度掘り出し布片に包み瓶に収めて埋葬し、墓碑を建立したものであります。
 位牌は、曹洞宗観泉寺に祭られていて「幸盛院鹿山中的居士霊位」とある。